タコの生殖と寿命
交接相手の雌タコを得た雄タコは射精した精子をカプセルに包み込み舌状片でつかみ長い時間をかけて雌タコとの間で受け渡しを行う。ほとんどの雄タコは右側第3腕が交接腕(つまり生殖器)になっていてその先端には吸盤ではなく雌タコに精子を渡すための器官(舌状片)がある。交接の後、雌タコは献身的かつ母性愛あふれる愛情を注ぎながら卵をしっかりと抱いて絶食を開始する。その後母体は自傷を繰り返し生理学的に衰退してゆき死を迎える。雄タコもその後まもなくして死ぬ。そこで素朴な疑問。なんでやねん?あれだけの母性愛を示していた雌タコが孵化を見届けると育児を放棄してすぐに死んでゆくのはなんでなんだろう?
(推測)子供が孵化した時点ですべて体力を使い果たし精根尽き果てて死ぬのだろうか?
(疑問)いや、これだけ高度な知能の備わった生物であれば適切に体力配分を行い、せめて子供たちが独り立ちできるようになるまでは生き延びて子育てをする、または再度生殖活動を行い子孫をさらに増やすといった選択肢もあるだろうに。
そこでいろいろと調べてみてわかったことは、
(その1)
1944年に研究者たちはこの謎について、「タコの分子的な自殺スイッチは”交尾”によって押されるのではないか」という仮説を立てた。その後、交尾の関与については長らく解明されていなかった。
(その2)
1977年、ブランダイス大学の心理学者ジェローム・ウォディンスキーは、カリブ海に生息するOctopus hummelinckiの母体から視腺を摘出すると、母体は産卵を放棄し、再び摂食を開始し、数ヶ月長く生き延びることを実証した。ウォディンスキーは視腺の働きとそこから分泌される物質を、母体の死を確実にする「自己破壊」システム(’self-destruct’ system)と表現した。当時、頭足類生物学者たちは、視腺が何らかの「自爆」ホルモンを分泌しているに違いないと結論づけたが、それが何なのか、どのように作用するのかは未解明のままの状態がしばらく続いていた。
(その3)
2018年、米シカゴ大学(University of Chicago)やイリノイ大学シカゴ校(UIC)らの研究者は先の知識をもとに、産卵後の衰弱段階が異なる2匹の雌タコの視神経腺のRNA配列を解析した。RNAは、タンパク質の生成方法に関するDNAからの指示を伝えるものであり、その配列を決定することは遺伝子の活性レベルや、ある時点での細胞内で起こっている現象を理解するのに有効な方法となった。その結果、より死期の近づいた雌タコでは、(1)性ホルモン、(2)インスリン様成長因子(ホルモン)、(3)コレステロール代謝を制御する遺伝子においてより高いレベルの活性が見られた。人において、ホルモンバランスの乱れは自律神経失調症の原因となるし、コレステロール代謝の増大は反復的な自傷行為や摂食障害を引き起こすことがわかっていることから、この生化学的な変化が、雌タコの自傷行為を引き起こしているものと推論した。
(その4)
それでもなお生化学的な変化のトリガーとなるシグナル伝達因子は未知のままだったが、2022年の研究では質量分析法を用い雌の視腺における主要な分泌物とステロイド生成経路を特徴づけることに成功した。生殖後特定のステロールホルモンの合成を促進するために、少なくとも3つの経路が活性化されることがわかった。1つの経路は、他の動物において生殖を促進することが知られているプレグナンステロイドを生成する。他の2つの経路は、7-デヒドロコレステロールと胆汁酸の中間体を生成する。いずれもこれまで一回繁殖性(注釈)に関与することは知られていなかった。この研究の結果は、無脊椎動物のコレステロール経路に関する知見を提供するとともに、左右相称動物の生活史過程におけるステロイドホルモン生物学の驚くべき統一性を裏付けるものとなった。
(注釈)一回繁殖性とは、生物が生涯に一度だけ生殖を行い、その後死ぬ生殖戦略を指します。この一回だけの生殖の後はたとえ生殖が成立しなかったとしても生物は死に至る。
(所感)
命というものを独立したひとつひとつの個体に備わったものとしてミクロ視点で見ると悲惨に見えたりする疑問なことでも、より社会的な集合体としての生命といったマクロ視点から見ると少し違った見方がでてくる。例えば細胞やアリ、ミツバチの死滅生成を集団としての新陳代謝としてとらえると、種の保存といった価値を最優先するならばそれが最も効率のよい選択肢なのかも知れない。これはアーサー・ケストラーのいうホロンにあたる捉えかたであり全体の一部として機能している限りにおいてはたとえそれが犠牲や悲劇に思える事象であったとしても、全体としての機能においては平衡と調和のとれた最適化がなされていることが多々あるようだ。これは人間にとってもそっくりあてはまる。一個体としては生存本能、死滅回避といった先天的なプログラムが組み込まれているため、できれば少しでも長く生きたいだろうし、そうでなければあっという間に食物連鎖の均衡が崩れ多くの種が絶滅してしまう。さりとて、自らの意志とはうらはらに死へと邁進するスイッチが入ってしまうのだからどうしようもない。母ダコは交接によってこのスイッチが入ってしまうことをおそらく事前に歴史書で学ぶこともなく、他者から伝承されることもなく、すでに死滅プログラムが走り出していることさえ認識しないまま交接し産卵して懸命に卵を守り続けているのだ。
(参考文献)
1.
Steroid hormones of the octopus self-destruct system (Current Biology)
https://www.cell.com/current-biology/fulltext/S0960-9822(22)00661-3
2.
Changes in cholesterol production lead to tragic octopus death spiral
– The University of Chicago Biological Sciences Division –
https://biologicalsciences.uchicago.edu/news/octopus-cholesterol-death-spiral
3.
まだ科学で解けない13の謎 - マイケル・ブルックス著 - 草思社