1.「イリシウム」 2021.03.18
深海魚こども図鑑を手にテントに見立てた掛け布団の
中にもぐり込むとそこは深海の底だった。提灯鮟鱇の
イリシウムのような懐中電灯の青白い微光に照らし出
される埃のチンダル現象はプランクトンとなり俄かに
浮遊をはじめる。やがて夢と現実が交錯をはじめる頃、
グノシエンヌに共鳴した奇界の住人たちは図鑑からそ
っと抜けだして、静かに泳ぎはじめる。
2.「ヘプタグラム」 2021.01.30
憧れのマースク。ファンネルマークはヘプタグラムだ。
宝石のように輝くシーランド・イノベーター。
汗臭い男たち3人を乗せたポンコツ車はいつもきまって
海岸道路を大きく迂回し外人墓地のある山手の道を通り
本牧埠頭に向かった。途中男たちは皆、ほかの男たちに
気づかれぬようさりげなく横目でフェリスの女子大生を
見やってはそこはかとなく仄かな思いに頬を赤らめてい
た夏の午後。埠頭の入り口付近にあった外人倶楽部には
ハイカラなビリヤード台が置かれていて人生の箱庭のよ
うな台の上では色とりどりの的球が弾き弾かれ絡み合っ
ていた。
3.「ヨコハマメリー」 2021.01.26
僕が横浜の山下公園近くにある営業所に赴任して間もない
頃、仕事を終えて帰宅する時はいつも遠回りをして馬車道
通りを散策しながら関内駅に向かった。残業で遅くなった
その夜、通りに人影はなくしんと静まり返っていた。店の
シャッターはすでに降ろされガス灯だけが灯っている。自
分の影が長く伸びたり縮んだりしながら歩くのが銀河鉄道
のケンタウル祭のようだと微かに苦笑しながら小さな十字
路を曲がったとき、薄灯りの下にその人は立っていた。白
い傘を持ち白いドレスを着た威厳のある白く美しい顔の女
性がそこに立っていた。まるでその人自ら発光しているか
のように淡い光が全身を包み込んでいた。二人はほんの一
瞬互いに目で挨拶を交わした。その時の光景は半世紀近く
過ぎた今でも鮮明に憶えている。それから幾度となく馬車
道通りを経由して帰宅したがついにその人を見かけること
はなかった。
4.「木星から来た男」 2020.12.19
山下公園近くの小さな事務所で働きはじめて間もない頃の
こと。北欧の白い豪華客船が出航したばかりの陰鬱な雨の
降る正午、僕は県民ホールの最上階にある英一番館でラン
チをしていた。雨滴のついた大きな窓ガラス越しに山下公
園の景色を眺めていると、にわかに雨の中を散歩してみた
いといった衝動に駆られた。食べかけの昼食をそのままに
して会計を済ませ、読みかけの文庫本をポケットに捻じ込
み公園に向かった。園内に人影はなく傘をたたく雨粒の音
だけが聞こえる静寂の中、僕はインド水塔の辺りで立ち止
まり雨にけぶる港の風景をみていた。その時不意に後ろか
ら「こんにちは」と声をかけられた。振り返ってみると彫
の深い顔に微笑をたたえた男が傘もささずびしょ濡れのま
までそこに立ち懐かしそうに僕を見ている。誰もいないは
ずの公園でいきなり声をかけられたものだから、返す挨拶
も忘れ傘を差しかざしてあげることもしないまま、思わず
どこから来たのかと訊ねてしまった。その男はやはり微笑
んだままごく自然に木星から来たのだと答えた。今は大学
の考古学の先生のお手伝いで古い地層を発掘調査している
のだと言う。その日の記憶は何故だかここで途絶えている。
今から約半世紀も前のお話です。
5.「かにかくに祇園はこひし」 2020.9.14
京都駅前にあるビジネスホテルの裏通りにあるビアホールの
店の前には空席を待つ人の長い列が出来ていた。幸いなこと
に1名用の立ち飲み席が空いているとのことで待つことなく
席に案内された。満員で賑わう店内は活気に溢れ、橙色の
電球に照らされる人々の表情は皆明るく、地上の幸せがこの
一点に凝縮されているかのようだった。ビールを飲みながら
その日撮影した画像を確認しているうち、これまで一度も訪
れたことのない夜の祇園をどうしても撮りたくなった。運ば
れて来たソーセージの盛り合わせを片っ端から口に捻じ込み、
大ジョッキで注文した二種類のクラフトビールでもって胃袋
に流し込み、店の会計を済ませて八坂神社方面に向かうバス
に飛び乗った。先斗町を通り抜け白川に沿って歩いている
うちに巽橋に来ていた。暗闇の中に石碑がたっている。
「かにかくに 祇園はこひし 寐るときも
枕の下を水のながるる」
僕がまだ高校生の頃、夏休みになるとマルーンカラーの電車
に乗り六甲から京都河原町まで毎日のように通い、胸の奥の
底にいつもいてくれた花をかざした幻影の人を探して先斗町
や祇園あたりを彷徨い歩いていた。終わりかけた線香花火の
儚い火花のようにその頃の記憶が灯っては消えてゆく。
骨董店の片隅に埃にまみれたまま放置された砂時計の流れ落
ちる真砂が突然虚空で静止したまま動かなくなった。驚きを
隠せないといった表情の僕に店の主人は愛想のよい笑みを浮
かべながらこう言った。
「その時計、たま~に止まってしまうんですぅ、そんな感じ
で。」
「何じゃそりゃ」
と独り言のように呟やき振り返るとすでに店の主人の姿はな
く、時計の砂は静かに流れ落ちている。ふと我に返った僕は
高校生の時に恋した幻影の人を探して静まり返った花見小路
通りを徘徊し、やがて疲れ果て、郵便ポストを抱きかかえる
ようにしてしゃがみ込んだまま眠ってしまった。翌朝、誰か
に肩をたたかれて目が覚めた。
「おじちゃん、ちょっとどいてくれません。わたし手紙出し
たいねん。」
「ああ、ごめんなさい。」
と言いながら、僕は尻についた土埃を手で払い落しながら立
ち上がりポストから離れ、二日酔いの青白い顔でその女の子
をしげしげと見つめた。年のころはまだ十三歳くらいで、綺
麗な黒髪のおかっぱあたまをしており、牛乳瓶の底のような
分厚いレンズの眼鏡をかけた、いかにも利発そうな女の子だ
った。女の子は無事に投函をすませるとこちらを振り向き、
にこりと笑いながら、
「ありがとう。」
と言って風のように走り去っていった。
Image captured at gion-shirakawa
GMap(35.00553, 135.77390)
Date taken: 29/09/2019